過去の展示

2012年10月 眠る斜面 Place M:タイプCプリント 38枚

私が居を構えた町のそばに、狭山丘陵という場所があります。太古の川の流れによって削られた地形です。ここで暮らし、遊び、恵みを得て、いらないものを捨てます。管理者はあちこちに囲いを作ります。でも囲いは腐る一方です。ルールも作ります。でも守られません。ここでは、空回りした自分の頭が、本当の回転を取り戻します。こだわりがなくなり、ふわふわと軽くなります。深くておいしい呼吸ができます。そしてまた、息を止めて日常生活に戻ります。狭山丘陵はそんな場所ですが、あまり他人には教えないようにしています。

2014年 8月 眠る斜面II Place M:タイプCプリント 28枚

狭山丘陵には貯水池があります。多摩川上流から地下を通して強制的に運ばれた水を湛えています。水道施設として厳重に管理されているので、容易に近づくことはできません。その周囲には斜面の多い地形がとり残されました。雑木林の中の住宅や墓地、遊興施設や廃棄物処理場の配置には脈絡がありません。2009年からここを歩き、なにげなく見過ごされる風景の、わずかな綻びや不協和音を嗅ぎとる営みを続けています。狭山丘陵が内包する矛盾や不均衡への嘲笑混じりの溜息はやがて、微笑を纏う風となり僕の背中をくすぐるのです。

2015年 9月 水とあるく Place M:ピグメントプリント 18枚

自然の中に人工物が違和感を持って存在する風景に魅力を感じます。とりわけちっぽけな人工物が自然の大きな力の前に、今にも押しつぶされそうになっている風景を目にすると、僕は妙に納得し安心できるのです。

 人間も自然の産物である以上どんなに自然に抗ったとしても、最終的に人間が自然をコントロールすることはないという、僕の根本的な考え方を確認することができるからかもしれません。どんなに近代的な建物でも、片隅にはもう植物が繁殖しているし、どんなに最先端の科学技術でも、防ぎようのない確率で起こるほんの些細な一人の油断で、人の手には負えない重大な事故があちこちで起きています。人が物を作り、生活を便利にさせ、自然をすっかり管理しているという勘違いをし、生活環境を変化させ、そのわずかな変化にも耐えられず、自らの種の保存が脅かされている現状さえ、地球という偶然の惑星で引き起こされる自然現象の一部に過ぎないと考えています。

下北半島の付け根に汽水湖沼が点在する地形があります。周辺には過去の工業開発計画のために確保された土地が、開発されるときをずっと待ち続けています。高い鉄柵に囲まれた施設の奥では今でも、音もたてずに何かを準備しているようです。レイクタウンには新しい住居がまばらに建ち、森や丘の斜面には白い風車が回っています。僕が泊まるホテルはいつも、働く人たちで満室です。

汽水沼の水は潮の干満に合わせて海と陸を往復します。この水の往復はずっと遠い過去から、人々の小さな営みを飲み込んで、はるか未来まで続くことでしょう。僕やあなたがいなくなった未来まで。

 

2017年 1月 線の領域 Place M:ピグメントプリント 23枚

郊外の風景には人工的な物と自然の物、そして人が管理しきれずに捨てた物が存在している。人工的な物は直線や均一な曲線によって構成され、自然は不規則な線を広げる。そして管理しきれずに捨てた物は不規則な自然の線によって覆い隠される。自然界の複雑な現象に人は都合良く線を引く。意識が目覚め、自他の境界線を作るとともに生と死を分かち、森と村に結界を張り住居や道具を生み出した。有史以来人は多くの線を描き、特に産業革命後は無数の境界線によって自然を細分化し、知識や技術の著しい進歩を遂げた。物理的あるいは概念的な線によって自然を分類し管理することが文明そのものだとも言えるだろう。しかしその管理の手を休めればすぐに境界線は不明瞭になり、人にとって不都合な乱れ広がる自然の線が姿を現すことになる。現代文明を支える無数の線の集合は、もうすでに人の守備範囲を超え、あちこちで綻びが出現しているのかもしれない。人工線が満たされる都会に比べると、郊外には人と自然の線をめぐる鬩ぎ合いがある。それらの鬩ぎ合いを見るとき、数千年にわたって人が築いてきた文明という不可逆の営みを思い浮かべる。僕はその営みの有り様に目を奪われシャッターを切る。

2018年 1月 線の領域#2   Place M:ピグメントプリント 23枚

郊外の風景には人工的な物と自然の物、そして人が管理しきれずに捨てた物が存在している。人工的な物は直線や均一な曲線によって構成され、自然は不規則な線を広げる。そして管理しきれずに捨てた物は不規則な自然の線によって覆い隠される。自然界の複雑な現象に人は都合良く線を引く。意識が目覚め、自他の境界線を作るとともに生と死を分かち、森と村に結界を張り住居や道具を生み出した。有史以来人は多くの線を描き、特に産業革命後は無数の境界線によって自然を細分化し、知識や技術の著しい進歩を遂げた。物理的あるいは概念的な線によって自然を分類し管理することが文明そのものだとも言えるだろう。しかしその管理の手を休めればすぐに境界線は不明瞭になり、人にとって不都合な乱れ広がる自然の線が姿を現すことになる。現代文明を支える無数の線の集合は、もうすでに人の守備範囲を超え、あちこちで綻びが出現しているのかもしれない。人工線が満たされる都会に比べると、郊外には人と自然の線をめぐる鬩ぎ合いがある。それらの鬩ぎ合いを見るとき、数千年にわたって人が築いてきた文明という不可逆の営みを思い浮かべる。僕はその営みの有り様に目を奪われシャッターを切る。